建物について

 

・開港の地に唯一残る洋館。三菱合資会社時代に建てられ、100年の歴史を越えた北海道で唯一残る建物

旧三菱合資会社室蘭出張所は、空知炭鉱(夕張、三笠、美唄など)から鉄道で運ばれた石炭を港から積み出すとともに、石炭の質を分析するなどの作業を行っていた建物です。三菱合資会社は、三菱が分社化する前の社名です。

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戦時中は、三代財閥、北炭、古河鉱業などの会社が、国策会社・日本石炭として統合され、使われていました。戦争当時、2Fで総務をされていた方が来館され、当時のことを懐かしく語ってくださっています。(詳細が明らかになりました。こちらをご覧ください。

札幌の旧永山邸(北海道指定文化財:三菱合資会社時代に買い取った)は、三菱が炭鉱事業で北海道に進出した時、調査課が置かれた建物です。空知炭鉱から鉄道で小樽、室蘭へ運ばれた石炭は、それぞれの港から積み出されました。小樽からは主に日本海側に。室蘭からは太平洋側ルートで八戸、釜石、宮古、仙台、東京、名古屋へ運ばれ、戦前戦中戦後のエネルギーを支えました。

室蘭市要欄1923年(大正12年)撮影
写真1:室蘭市要欄1923年(大正12年)撮影

 

写真1をご覧ください。これは、大正時代の旧三菱合資会社室蘭出張所の写真です。この写真では、玄関の階段に2人、人が立っています。電気が点くであろうモダンな門があり、左側に柵があります。そして、ポプラの木が植えられていたと伝えられています。屋根に雨樋がありますが、これは、北海道でも雪の少ない室蘭だから取り付けられたと考えられます。雪の多い地域では、すぐに壊れて落ちてしまうでしょうが室蘭は雪が少ないので雨樋が付けられ、傘が浅い屋根が維持できているのです。窓はキラキラ度が高い、ヨーロピアンな上下スライド式の長窓で、和洋折衷の下見張り。1Fの窓は、和風な横スライドです。左右奥の山の形はいまでも同じです。
建物証明左側(写真に写っていない部分)の、現在、ガススタンドになっている本体事務所横にはテニスコートがありました。このテニスコートが記憶にある方が多くいることもわかってきました。

建屋全景
建屋全景(昭和33年撮影・室蘭市蔵)

この写真は、当時の関連建物がそのまま残っている唯一の全景です。
本体事務所にはトイレがなく、連なる長屋にトイレとロッカーがあります。これは現在も同じ状態です。

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長屋裏には石炭分析室の建屋があり、これは女流画家 佐久間恭子の画集にも描かれています。石炭分析室(棟)は土台が残されていましたが、2014年撤去されました。一部、三菱マテリアルさんのご協力で保存されています。
石炭分析室(棟)横の倶楽部は様々な用途のほか、国鉄の接待所等に使われていたそうです。

●北海道の炭鉱の歴史を背負う

この建物は、長い間、旧三菱鉱業の建屋と認識されていましたが、三菱商事と書かれた大正期の写真が発見され、調査したところ、そのどちらでもない、三菱が分社化する前の三菱合資会社の時代(5年前に復元された東京丸の内にある三菱1号館の時代)に建てられ、その後、三菱商事三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の事務所として使われ、1915年に建設されたことがわかりました。ちなみに、サッポロファクトリーに隣接する旧永山邸(北海道指定文化財)は三菱が北海道に進出する際に買収し、拠点とした場所で、この建物の兄弟にあたり、北海道の歴史をつなぐ建物でもあります。

詳細は、三菱社史、三菱商事史等をご覧ください。


さらにこの地は、こんな場所です。
・開港の地
先住民アイヌ語でトキカラモイ(ちかの釣れる場所)という名前のこの地は、2014年現在、開港142年になる室蘭開港の地です。黒田清隆が小さな漁村だったこの地を港とし、札幌とつなぐことを決めました。森と室蘭を結ぶ船の道は、森蘭航路呼ばれ、クラーク博士イザベラ・バード明治天皇もこの道を通っています。
この航路が、2016年観光ルートとして復活しました。むろらん100年ではこれを祝いまち歩きを行いました。

・経済発祥の地
開港の地には、郡役所をはじめ、北海道炭鉱汽船本社、銀行、税関など、街の重要施設が立ち並びました。北海道炭鉱汽船に連なって、三井三菱住友といった3代財閥、さらに現在につながる商社などが進出、起業し現在の商工経済にまでつながっています。

・旧札幌通りの起点
開港の地から北海道行政の中心札幌までつながる道路が敷かれました。
室蘭の半島は岩盤のため、難工事でしたが、この道路が経済のルートとなり、街は発展しました。